『「ロォォォドッ! クルスノヴァァァァァッ!!」』
 ロードセイバーが描く十字の軌跡は、その交差点で確実にデスペリオンを捉えた。
 だが次の瞬間竜斗の耳に届いたのは、ロードセイバーがデスペリオンを斬り裂く音ではなく、ロードセイバーが砕かれる敗北の鐘の音だった。
『馬鹿なっ?』
「ロードセイバーが、砕……け…た」
 信じられないモノを目の当たりにし、竜斗もロードエスペリオンも一瞬思考が停止する。
 強度が劣っていたわ筈はない、切れ味が劣っていた訳でもない。しかし結果として竜斗の剣は、タツトの剣に敗北した。
「ここまで上手くいくなんてな、正直驚いたぜ」
 邪竜刀をしたから上に振りぬいた体勢で同じく動きを止めているタツトが、この結果に喜ぶ事もなく素直に驚いている。
 よく見ればタツトの左手は、柄から離れ峰を押し出したように突き出されている。
 あの瞬間、タツトはロードクルスノヴァに対してある技を使った。
 それは、紅月流剣技・月波。
 ただし普通に使ったわけではない。ロードセイバーと邪竜刀が交差する瞬間、その交差点の真後ろから掌打を打ち込む事で交差する一点の破壊力を極限まで高めたのだ。
 本来月波とは硬い鎧に刃を通すために編み出された技だ、その破壊力は極めれば鋼鉄さえも断ち斬ることが出来る。
 今回邪竜刀がロードセイバーを折ったのも、交差する一点に集中した負荷にロードセイバーが耐えられなかった為だろう。
 他にも刃筋が立っていた、など様々な要因はあるかもしれない。
 だが、今この場においてそんなモノは些細な事だ。
 重要なのは、竜斗が破れ、タツトが勝った。その結果である。
「残念だったな、竜斗。オレの勝ちみてぇだ」
 未だに動く気配を見せないロードエスペリオンから離れたデスペリオンは、胸の竜から黒い炎を吐き出し鮮血の刃を黒く燃え上がらせる。
「テメェの希望は、オレの絶望で塗りつぶしてやるよ」
 黒く燃え上がる邪竜刀を構え、デスペリオンがロードエスペリオンに向かって加速する。
「エボニー……」
 そして漆黒の炎を纏った鮮血の刃は、タツトの手によって十字の軌跡を描く。
 それはあたかも、ロードクルスノヴァを模しているかのように。
「エクスブレイクッ!!」
 放たれる十字の斬撃は、ロードエスペリオンを漆黒の炎で包み爆発と共に斬り裂く。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁっ?!」
 胸に走る激痛に、竜斗は悲鳴を上げ布団を跳ね除けて°Nき上がった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 荒い呼吸、全身をぬらす気持ちの悪い汗、そして胸に走る十字の激痛。
 そして、自分が布団に寝かされていたという事実。
 その全てが、竜斗に一つの事実を突きつける。
「俺、負けたのか」
 震える自分の手を見つめる竜斗は、感情のこもらない平坦な声で、そう呟いた。

勇者幻獣神エスペリオン

第9話:『漆黒』



 デスペリオンとの戦闘から数日、八雲学園には暗雲が立ち込めていた。
 それはただ梅雨という季節による天気なのだが、初めての敗北に打ちひしがれる少年には自分の心を映している様に思えた。
「……負けた」
 まるで言い聞かせるように、その事実を実感するように、竜斗はその言葉を口にする。
 理解できない、実感できない、負けた悔しさではなく、ただ純粋に信じられない。何より、自分を敗北に導いた敵が、その存在が信じられない。
 姿かたちも、声も、笑顔も、口調も、技も、何もかも、彼自身の記憶に刻まれたモノと全く同じなのに。それでも、信じられない。
「獅季が俺の、敵」
 口に出しても、何度口に出しても信じられない。理解できない。
『それに竜斗が悪いんだよ、僕がこうなったのは竜斗の所為なんだから』
『あの日、キミは僕を見殺しにしたんだ。初めて邪鬼が学校を襲った日、僕は炎狼鬼に殺された。僕はキミを呼んだのに、君は僕の言葉なんて聞かずに飛び出した』
『そう、キミは僕を殺したんだ。子供の頃に両親を殺したみたいに、キミの行動が僕を殺したんだよ』
 脳裏に聞こえてくるのは、親友である少年の口にした"ただの事実"。
 そこには恨みも辛みも妬みも、何もない。ただ確認するように紡がれた、原因と結果。
「俺が、殺した」
 先ほどと同じように口にしたその言葉は、しかし先程とはうって変わって胸に重く圧し掛かる。
「父さんを、母さんを……」
 もう写真でしか思い出せない両親の顔を思い浮かべ、同時にもう一つ別の顔が浮かび上がってくる。
「……獅季を、殺した」
 自分でも何故こんなことをしているかはわからない。ただ一つわかっているのは、どれだけ辛いと感じても先日の戦闘中のような激情に駆られないと言うこと。どれだけ言葉にしようと、どれだけ思考を働かせようと、竜斗は自分の中に一握りも絶望感が沸いてこないことを実感していた。
 辛い、苦しい、悲しい、そう感じることが出来るのに、悔しさも憎しみも、沸いてこない。それは、言うなれば感情の欠落。虚無感と言い換えても良いだろう。
 自分の中に空白、いや空洞がある。何もない、あったモノ、あるはずのモノが存在しない。それを怖いと思う心はある、だがそれが身を震わすような物理的な恐怖にはならない。
「なぁ、エスペリオン。どうしたんだろうな、俺」
 不意に口をつく言葉。平穏を捨てて手に入れた掛け替えのないパートナーへの、何気ない言葉。しかし竜斗は知っている、返事など返ってこないことを。
 デスペリオンに敗北し、意識が回復したのは昨日の朝だ。携帯電話のディスプレイを見てまる二日以上経っていることを知ったが、起きて学校に行く気にはなれなかった。
 幸か不幸か、自室に篭っていて布団を被っていても、龍造が様子を見に来ることはなかった。おかげで、目覚めてからまだ誰とも会話をしていない。
 その間に当然エスペリオンに話し掛けたが、一度として返事はなかった。それどころか、夢に潜ってもエスペリオンの姿は見当たらない。もっとも、今の竜斗では合わせる顔もないのだが。
 そんな事を延々と続けては内心で自嘲し、何をするでもなくベッドで寝返りをうつ。エスペリオンを探しに夢に入った事を考えれば、意識が回復してからもう丸一日ほど経過しただろうか。それで様子を見に来ないとなれば、龍造は竜斗が起きていることに気付いているのかも知れない。
 気付いていてあえて何もしない、今の竜斗にはその方が楽で良かった。仮にも師匠である龍造に、こんな人殺し≠フ情けない顔を見せたくはなかった。それはあまりに滑稽で、情けない自分を遠くから見ているかのように現実離れした感覚を覚える。
 だがそんな竜斗を現実に引き戻したのは、障子の向こう、廊下から聞こえてくる木の軋む音と一つの足音だった。
「竜斗、起きておるな」
 そんな質問ですらない声と共に障子を開け部屋に入ってきたのは、先程まで来ないと安堵していた龍造だ。障子に背を向けている竜斗からは、当然その表情を窺うことは出来ない。むしろ、見ないようにしているという方が正しいだろう。
 龍造の視線は突き刺さるような厳しいモノではないが、怒りも呆れも哀れみも苦しみも、龍造の竜斗に対する想いが込められている。そんな視線に耐えかね、竜斗は口を開く。
「……なんだよ、じじぃ」
「おぬしは、こんな所で何をしておる」
 竜斗が自分から話し出すのを待っていたのか、龍造は竜斗の言葉に間髪要れず問いかける。その声からは、やはり怒りのような単純ではない様々な感情が感じ取れる。
「何って、見ての通りだろ」
 そんな龍造の想いを知ってか知らずか、竜斗は投げやりに言葉を返すだけで向き直ろうともしない。その姿に、龍造も遂に痺れを切らし決定的な言葉を口にする。
「おぬしは龍麻(たつま)の、幻獣勇者の子ではなかったのか? 幻獣勇者としての道を選んだのではなかったのか?」
 龍造の口から発せられる幻獣勇者≠ニいう言葉は、龍造が竜斗が戦っていた事を知っているという事に他ならない。だがそれも、竜斗の父・龍麻が幻獣勇者だったことを考えれば、容易に想像できた事だ。だからこそ、竜斗は驚きよりも納得の方が大きかった。
「やっぱ、知ってたのか。俺の事も、父さんの事も」
「ワシもかつては幻獣勇者として戦っておった。当然、おぬしが戦い始めた事も知っておった」
 背中越しに龍造の言葉を聞いた竜斗は、ベッドから身体を起こすと龍造に向き直る。龍造と向き合った竜斗はバツの悪そうな顔をしているが、どこか開き直ったような、諦めた表情をしている。
「何してるって、言ったよな? 決まってんだろ」
 龍造が何か言い出す前に、先に竜斗が口を開いた。
「……負けたんだよ」
 吐き捨てるようにそう告げた竜斗は、壁に立てかけてあった木刀を手に取り、無造作に龍造の方へ放り投げた=B
「見てくれよ、紅竜刀もただの棒っ切れになっちまった。アイツの声だって聞こえやしねぇ」
 次々と竜斗の口から垂れ流される言葉に、龍造はただ表情に影を落として耳を傾けるだけだ。それがまだ幼い少年に辛い戦いを押し付けた、自分への罰だとでもいうように。
「最初から無理だったんだよ。俺みたいな人殺し≠ェ、世界を守るなんて」
 視線を落とし、震えて握る事すらできない拳を睨み付け、竜斗は自身の中に渦巻くモノを吐き出し続ける。
「俺の手は、昔じじぃに教えられた刀一本持つのがやっとなんだよ。父さん達が死んだのだって受け止められねぇ、こんなちっぽけな手が! 世界だとか、顔も知らない誰かとか、そんな重たいモン、支えられるわけねぇだろ!」
「だから、自分の信念を曲げて、戦場から離れるというのか?」
 そこまで吐き出した竜斗に、ようやく龍造が口を挟む。
「エスペリオンもいねぇ、力も使えねぇ、そんな俺が戦場に行って何になるんだよ。俺はもう戦えねぇんだよ」
「それは、おぬしの弱さをエスペリオン殿に押し付けているだけじゃ。エスペリオン殿とおぬしが戦う事は別じゃろう?」
 龍造の耳に、皮膚を擦り強引に破る様な不快な音が入り込む。それが、自分の握った拳の中で爪が掌の皮膚を破った音だと気付くのに少しだけ時間が掛かった。いつの間にか、自分でも気付かぬ程強く握り締めていたのだ。
「別じゃねぇさ。俺はエスペリオンがいたから戦ってこれたんだ。エスペリオンの声を聞いたから、戦う決意をできたんだ」
 二人の間に、ほんの数瞬の沈黙が訪れる。重く苦しい沈黙の空気、それを破るのは竜斗の心の底から溢れた呟き。
「俺は……父さんじゃない」
 ポツリと漏らされた呟きは、次第に悲痛な叫びとなって、竜斗の心の嘆きを龍造へと叩きつける。
「父さんの息子だとか、幻獣勇者の子だとか、そんなんで期待されたって迷惑なんだよ! 俺は父さんじゃない、父さんみたいに強くないんだ! だからもう放っといてくれっ、もう幻獣とか邪鬼とかウンザリさんだよ!!」
 竜斗の叫びが、周囲に木霊する。庭の木から小鳥が飛び立つ音が、竜斗に否応なく空しさを与える。
「……そうか」
 何を思ったか、龍造は不意に力を抜いて竜斗に背を向ける。
「ならば、好きにせい。ワシはもうおぬしに、戦えとは言わぬ」
 それだけ言い残し、龍造は竜斗の部屋を出て障子を後ろ手に閉める。その時、龍造が「すまなんだ」と呟いた様に聞こえたのは、竜斗の気のせいだったのだろうか。
 竜斗は未だ震える手に自嘲し、ベッドに腰掛け壁に背を預ける。何もかも忘れてしまえれば良いのに、そんなことを考えながら。






 最初に感じたのは、畳や障子、壁や天井から微かに香る和室の匂い。それから、お日様に包まれているような暖かい布団の匂い。
 そこまで思考が回り、碧は自分が布団で寝ている事に気付く。
「私、あれ……ココは?」
 碧の家にも和室はあるが、ここまで空気に和が満ちてはいない。
 まだぼぅっとする頭で自分がいるのが自宅でないことを理解すると、少しずつ記憶が脳裏に再生されてくる。
 デスペリオンに敗れた竜斗を捜し、血まみれの竜斗を発見したこと。その竜斗を治療するのに、竜斗の家に泊まり込んだこと。
 自分が寝ているのが紅月家の一室だと理解すると同時に、碧は途端に竜斗の事で頭が一杯になった。
「竜斗、さん」
 力を使い過ぎたのか、全身に感じる脱力感に邪魔をされて上手く体を支えられない。それでも布団を抜け立ち上がり、壁に手をつきながら記憶をたどり竜斗の部屋に向かう。
(えっと、この廊下を右に曲がって、突き当たりの左の部屋)
 竜斗を連れ帰った来た時の記憶を頼りに、碧は竜斗の部屋までの道程をたどって行く。廊下を曲がったところで記憶通りの場所が見えたことに胸を撫で下ろし、部屋の前まで進む。
 碧が寝ていた部屋と同じ障子の戸をノックしようとして、不意に碧の動きが止まる。
「俺は……父さんじゃない」
 部屋の中から聞こえた竜斗の声に、動きを止めざるを得なかった。
「父さんの息子だとか、幻獣勇者の子だとか、そんなんで期待されたって迷惑なんだよ! 俺は父さんじゃない、父さんみたいに強くないんだ! だからもう放っといてくれっ、もう幻獣とか邪鬼とかウンザリさんだよ!!」
 部屋の中から聞こえてくる竜斗の叫びに、碧は見えないハンマーで脳を直接殴られたような衝撃を受けた。数歩後ずさり、背中が壁に触れる。
「竜斗、さん?」
 それ以外、言葉が出てこない。自分を救ってくれた、あんなに強かった竜斗が、とても小さく感じる。だが同時に、そんな竜斗を昔の自分と重ねてしまった事に、酷いショックを受けた。
「……そうか。ならば、好きにせい。ワシはもうおぬしに、戦えとは言わぬ」
 そう言って竜斗の部屋から出てきたのは、龍造だ。
「すまなんだ。やはりワシでは、竜斗を救ってはやれなんだ」
 申し訳なさに唇を噛み締める龍造は、最後の希望を碧に任せるしかない自分がどうしようもなく情けないと血に濡れた拳を握り締める。
「勝手な事と分かって頼む。あやつを、竜斗を救ってやってはくれんか」
 何も出来ない自分が情けなくて、悔しくて、どうしようもなく無力な自分が嘆かわしい。それでも龍造は、誰かに縋るしか出来ない。もう自分は幻獣勇者ではないのだから。
 そんな龍造の手をそっと取り、碧は淡い光に包んで傷を癒す。
「きっと、独りぼっちになって怖いだけなんです」
 龍造の傷を癒すと、碧は優しく、どこまでも優しく、そして強く、微笑んだ。そこにいるのは、幻獣勇者でも、ましてや一人の少女でもない。ただの、竜斗の友達≠セった。
「お父さんもお母さんもいなくなって、神崎君もいなくなって、エスペリオンさんもいなくなって。急に独りぼっちになった気がして、怖いだけなんです」
 まるで竜斗の心を感じ取って、その全てを受け入れ、理解しているような言葉。碧の表情に、もう迷いはない。そして、龍造が眩しいとさえ感じる微笑みを浮かべて、胸を張って口にする。
「任せてください、竜斗さんは私が絶対に救います。それに……」
 言葉を途中でとめた碧は、龍造の手を放し竜斗と向き合う為に部屋の前に立つ。
「それに独りぼっちは、私の方が先輩ですから」
 碧は優しさと強さを同居させた表情で、迷いなく竜斗の部屋の戸を叩く。
「竜斗さん、起きてますか?」






 竜斗が八雲学園沖の海域で発見されたのは、戦闘終了から実に半日近くが経過した夜明け前の事だった。
 デスペリオンがサンレオンを連れて姿を消した後、碧たちは自分が休む事も忘れ血眼になって竜斗を捜索。しかし戦場が海上だった事もあり、捜索は困難を極めた。
 だが不幸中の幸いか竜斗は海を漂流することなく、ライオットユニコーンが戦っていた海沿いの砂浜に打ち上げられていた。恐らく人間界での実体を失う直前に、エスペリオンが竜斗をそこまで運んだのだろう。
 しかし、夢幻一体することでフィードバックしたダメージは酷く、竜斗はそれから更に半日もの間生死の境をさ迷った。
 その間休みなく続けられた碧の治療の甲斐あって一命は取り留めたものの、それから目覚めたという知らせを聞かないまま三日目に入っていた。
「すぅ……、破ッ!」
 早朝練習に各部活が励む時刻、八雲学園第四武道場に、少女の気合いと打撃音が響く。
 それは普通なら少女から発せられるような音では到底ないのだが、その少女、壬生 黄華は再び拳を構え鎖で吊されたサンドバッグを打つ。
「すぅ……、破ッ!」
 まるでボクシングのハードパンチャーを連想させる打撃音、その破壊力は大きく揺れるサンドバッグを見ればたやすく想像出来る。
「こんなのじゃダメ……、全然ダメッ」
 この拳に先日の戦闘で得た武装獣の力があれば邪戦鬼にも引けを取らないだろう。しかし黄華は、それだけの力を得ても不満しか感じないようだ。
 苛立ちを隠しもせず、サンドバッグに拳を叩き付ける。
 それは苛立ちを紛らわすだけの行為なのか、役立たずの拳に八つ当たりしているのかは解らない。
「決めたのにっ、お兄ちゃんの敵はみんな倒すって決めたのに!」
 届かなかった、間に合わなかった。新たな力を手にしても、倒すべき敵に届かなければ意味がない。
 黄華は自身の拳の無力さに激しい悔しさと怒りを覚え、闇雲に拳を振るう。
「倒す。絶対にアタシが、アイツを倒す!」
 何度目か、サンドバッグが揺れたところで、ふと黄華の動きが止まる。
「どうかされましたか?」
 いつの間にか道場の壁に背を預け、何食わぬ顔で黄華を見ていた青年が不意に声を掛ける。さも当然のようにそこにいるその青年、八雲 恭也(やくも きょうや)は普段通りのスーツ姿で黄華に微笑みかける。
「あ、私の事は気にせず続けてください。一応、顧問をさせて頂いている身。部員の活動は監督していなければならない、というだけですよ」
「顧問、ね」
 黄華が所属し恭也が顧問を務める総合格闘技部=B書類上では部活として成り立っているが、その活動は通常の部活と大きく異なる。
 そもそもが特定の部活動が肌に合わない半端者達が集まった部活。何かの練習があるわけでも、試合に向けて一致団結する部活でもない。早い話がゴロツキが合法的に喧嘩できる部活≠ネのだ。
 つまり、顧問というのも書類上の肩書であって、顧問としての仕事があるわけではない。たまに収拾の付かなくなった乱闘騒ぎを鎮圧するぐらいで、監督している姿など見た事がない。
「そう言えば……」
 確かに監督している姿など見たことはない。そもそもこそ部活に名を連ねる者たちは部活という枠組みを嫌ってこんな所にいるのだ、集団で部活動もしない部活に監督する状況などありえない。
 だが、恭也は確かに部員の活動≠ニ口にした。そう、黄華は今、自分の所属する部活に顔を出し活動している。そして昨日恭也と交わした会話を思い出す。
「部活に顔をだしたらって約束よね?」
 サンレオンの襲撃を受けたあの日、黄華は恭也に軽くあしらわれ再戦を求めた。恭也はそれに軽く応じ、条件として部活に顔をだしてくれ≠ニ言ったのだ。
 実はその瞬間まで恭也が自分の顧問だと知らなかった黄華だが、活動で顔を合わせる機会もないのだから仕方ないと言えば仕方ない。
 それよりも今この場において、黄華は恭也の出した条件通り部活に顔を出したわけである。そして勝負を執り行う二人は道場にいる。それだけで勝負の準備は出来たも同然だ。
「そう、でしたね。ええ、構いませんよ」
 壁に寄りかかっていた恭也は、脱いだスーツの背広と靴下を簡単に畳み、黄華の前まで進み出る。その動きは流れるように自然で、それだけで恭也がかなりの使い手だと思い知らされる。
「さぁ、どうぞ」
 そう言う恭也は構えと呼ぶにはあまりにも自然体過ぎる、むしろただ立っているだけにしか見えない構えで、黄華に微笑みかける。
 しかし、そんな対応をされて黄華が黙っていられるはずもない。自分は構えを取る必要もない、取るに足らない相手だと言われているようで怒りに歯を食いしばる。
「こんのぉぉおっ!」
 速攻。黄華はほんの数メートルだった恭也との距離を一足で詰め、伸長差の所為でほぼ真正面にある恭也の鳩尾に拳を叩き込む。
(決まった!)
 避けられるタイミングではない、そしてこの直線距離なら先に踏み込んだ自分の攻撃が決まる。そう確信できた。
 しかし、黄華の拳がヒットするはずのタイミングで、既に恭也は身体を横に半歩ずらして黄華の腕に手を添えている。更にもう片方の手を黄華の腹部に添え、黄華の勢いの方向を変え支点を与えるだけでその身体を宙で一回転させる。
 合気道などの相手の勢いを使った投げ技の一種なのだろうが、相手を投げて地面に叩きつけるのではなく一回転させて着地させる恭也のそれは、投げ技というよりはただ受け流しているだけの様に思える。
「良い拳です。ですが、少し正直過ぎますね。これでは避けてくれと言っている様なものですよ」
 恭也の言葉に、黄華は反応できない。自分の踏み込みの速度で一回転した所為で、軽く目が回り平衡感覚を奪われたのだ。だが、恭也に自分の拳を否定されたことだけは理解できた。
 頭をブンブンと振って無理矢理感覚を取り戻した黄華は、恭也の姿を追って振り返る。
「当たらないなら、当たるまでっ!」
 未だに背を見せている恭也に容赦なく、全力の拳を打ち込む黄華。だが後ろからでも結果は同じだ。受け流され、宙で体の自由を失い、着地させてもらう。
「残念ですが、何度やっても同じです。今の貴方の拳では、私には届きませんよ」
 三度、黄華の拳を受け流し、着地させる恭也。その動作に無駄はなく、まるで無意識の内に行っているようだ。
「文章と同じです。文章とは複数の単語を特定の文法に則って繋げる事で、ただの単語だったモノをより効率良く相手に伝える事が出来ます。ですが、単語の意味、文法の意味、どちらが欠けてもそれは正常に機能しません」
「このっ!」
 音もなく、黄華の拳を受け流し続ける恭也。その口はまるで教卓に立ち、授業を行っているかのように滑らかに言葉を紡ぐ。
「貴方の拳は、拳としてある程度の完成している。にも拘らず、その拳が私に届かないのは、その拳を使う貴方自身が未完成だからです」
「はぁぁぁっ!」
 黄華が何度拳を打っても、恭也は眉一つ動かさずに全て受け流す。口で理屈を説明しながら、何度やっても同じだ≠ニ身体で教えているのかも知れない。
「本来なら、小柄な貴方には拳よりも蹴りをお勧めしたいところですが……」
 そう言って初めて、恭也が自分から黄華と距離をとる。
「そんな時間ない! アタシはこの拳で、戦うっ!」
 自分の拳を否定する恭也の言葉に、黄華はそれだけは絶対に譲れないと叫びを上げる。幼い頃兄が教えてくれた拳は、絶対に仲間を護れるのだと信じて。
 恭也もそれは理解しているのだろう、そんな黄華の言葉を真正面から受け止め笑顔で頷く。
「ええ、分かっていますよ。だからこそ、私がここにいるんです」
 恭也が笑顔なのは変わらない、なのに黄華には恭也が表情を変えたように見えた。
 さっきまでとは違う笑顔、そう表現するのが一番しっくり来る。そのくらい、恭也の雰囲気が豹変したのだ。
 黄華にとってただの教師だった恭也は、初めて拳を避けられた事で強い相手になり、ここに来て遂に恐ろしいと思える程、その存在を膨らませていた。
「今からスタイルを変える時間はない。そうなれば、貴方はその拳を使う方法を、その拳で最も効率よく相手を倒す方法を知り、使いこなす必要があります」
「拳を使う、方法?」
 ついさっきまでまともに相手をしない恭也に腹を立てていたはずなのに、恭也の言葉はすんなりと黄華の中に入ってくる。
「そう、拳という武器を最大限に活かす身体の動きを理解し、身に付け、完成させる。何も知らないまま闇雲に拳を振るったところで、強くなれる道理はありません。暴れているだけで強くなれるのなら、手の早い不良はみな達人になっていますからね」
 皮肉めいたことを口にしながら、恭也はスッと人差し指を立てて見せる。
「そこで、一つ課題を出させていただきます」
 その口調はすっかり授業中のそれだ。この八雲 恭也という人間は、誰かにモノを教える事が天職なのだろう。
「課題と言っても、至って簡単なことです。貴方はその拳で、私を攻撃してください」
 恭也が言うには、ただ攻撃を直撃させるだけで良いのだそうだ。だが、先程から一度も成功していない事を簡単なこと≠ニ言ってしまう辺り、ただ優しいだけではないのだと実感させられる。
「当然、私からは一切手は出さないので、存分に攻撃に集中してください。さっきまでの様に、受け流すことも投げることもしません」
 ただし、と恭也は説明を続ける。
「私は貴方の拳がギリギリ届かない間合いを保ちます。その中で貴方は、私を倒す事だけを考えて拳を打ってください。他はどれだけ格好悪くても構いません」
 説明は終えたと、恭也が両手をズボンのポケットに入れ、構えるでもなく黄華が始めるのを待つ。自分からは手を出さない、という条件を分かり易く体現しているのだろう。
 そんな恭也を見据え、挑発と受け取った黄華は拳を先程までの何倍も強く握り締める。
(そこまで言うなら、当ててやるわよっ!)
 半身になるでもなく、ただポケットに手を突っ込んで棒立ちする恭也に、一切の容赦のない全力の拳を当てに行く。
(狙うは鳩尾、身長差のおかげでストレートで十二分に当たる高さ、逃げるより速く、当てる!)
 高校生という年齢からは想像も出来ない鋭い踏み込み、腰溜に構えられた拳は確実に直線軌道を通って恭也の鳩尾に吸い込まれていく。だが、
「動き自体は五十点はあげたいところですが、課題としては0点ですね」
 拳を打ち切って攻撃後の硬直状態にある黄華の耳に、そんな恭也の声が届く。そして気付く、自分の拳が紙一重で恭也の身体に触れていない事に。
「そんな、なんで?」
 滑る様な足捌きで黄華との距離を取り間合いを外す恭也は、変わらず優しい微笑みを浮かべたまま告げる。
「このギリギリ届かない間合いを保つ相手に、如何にして拳を命中させるか。これが課題の内容です」
 これは、口で言うほど簡単なモノではない。
 相手は自分の間合いを完全に把握しているため、身体が伸びきった拳の先から半歩、いや僅かに身体をそらすだけで拳を避けるのだ。これでは当てようがない。
「さ、当たるまで何度でもどうぞ?」
 今更ながら、黄華には恭也が天使のような微笑を被った、悪魔なのではないかと思えてきた。
(でも、きっと今のアタシにはコレが必要なんだ。アイツに当てれるようになったら、きっと何かが掴める)
 悪魔が相手だろうが、今の黄華は強くなる意外に道はない。ならば与えられる課題でも試練でも超えてみせる。それが、斗う竜≠護る矛になると誓った、彼女の全て。
 今一度拳を構え、しかし黄華は恭也の元へ踏み込む事が出来ないでいた。
(でも、どうすれば当たるかなんて、考えたこともなかった……)
 そうだ、黄華は拳の握り方や簡単な拳の打ち方を実兄・壬生 雷賀(みぶ らいが)に教わっただけで、兄が失踪してからは九割方独学と実践で実力をつけた。
 書物を頼り、路地裏の喧嘩を経験し、中等部になってからは格技部の部員を相手に、自分を高めた。誰にも頼らず、誰にも頼れず、誰にも教わらず、ただがむしゃらに、ひたすらがむしゃらに拳を振るい続けた。
 でもそれだけでは強くなれないと、幻獣勇者になった時に知った。竜斗と手合わせをして、邪鬼を目の前にして、シードユニコーンに出会って。
(でも、誰かに頼るなんて、どうしていいかわからない)
 今まで独りで、誰にも頼ることなく強さを求めた黄華。だがそれは同時に、誰かに頼って強くなる術を、誰かに教えを請う事を無意識の内に否定してしまう様にさせてしまった。
 だからこそ、黄華はがむしゃらに強くなった。けどそれには限界があり、黄華はもう限界を迎えてしまった。
 でも分からない。今まで最低限の知識と勘に頼った戦い方しかしてこなかった黄華は、どうやって当てるかなど一度として思考したことはない。
「…………」
 思考が停止し黙り込んで動かない黄華に、恭也は教え子に対する甘さを如実に表した笑みを浮かべ少しだけ黄華に歩み寄る。
「そうですね。いきなり考えろというのも無理がありますから、少しヒントを出しましょうか」
 そう言って少しだけ屈んで目線を下げた恭也は、ポケットから手を出して身振り手振りをつけて話を始める。
「貴方は拳を打つとき、何処を狙っていますか?」
 そう言って拳を握り、もう片方の手で拳を指差す。
「何処って、相手を狙うわ。さっきのはアナタの鳩尾よ」
 黄華も自分で拳を握り、それを恭也の拳を交互に見る。だが恭也の意図がまったく掴めず、怪訝な顔をするばかりだ。
「そうですね、間違いではありません。では……」
 話を続ける恭也は、握った拳を前に突き出し腕を伸ばし切る。
「この時、貴方が拳を打ち切った時、貴方の拳は、貴方の中では何処に当たっていますか?」
「……? だから鳩尾に当てるつもり……」
 恭也が何が言いたいのか、黄華も自分で口にすることでようやく気付いた。
「お解かり頂けましたか? そうです、貴方の拳は私の身体に当たった¥鰍ナ止まってしまう。なら私の身体が、元の位置から半歩後ろに下がれば貴方の拳は絶対に届かない」
 理屈としてはこうだ。
 黄華は自分の拳を、相手の体表面目掛けて打つ。打撃面ではなく打点が既に体表面に設定されているのだ。普通なら何の問題もない事だが、これは相手が最短半歩、最長でも数歩下がるだけで打点が外され、回避されてしまう事を意味している。
 一〇メートル先の物を取りたくて一〇メートルの棒を用意したのに、棒を伸ばしたときには欲しかった物が一一メートル先に移動していたと思えばいい。コレでは絶対に届かない。
「でも……」
 理屈を理解した黄華が、そこで更に口篭る。そう、理屈を理解したからといって簡単に克服できることではないのだ。
「貴方の拳は、果たして相手に当てる≠スめのモノなのですか?」
 だが再び思考の渦に飲み込まれそうになった黄華を一瞬で目覚めさせる程決定的な、黄華の中にある決定的な言葉を、恭也の言葉が思い出させる。
「違う。アタシは、アタシの拳は槍よ。全ての敵を例外なく貫く、絶対の矛!」
 打開策は見えた。打点から身体をずらして避けるというのなら、元から打点を相手よりも後ろに設定して拳を打てばいい。
 当然、相手の後ろを狙うなど簡単なことではないが、やってやれないことではない。
「何か見えたようですね。では、再開しましょう」
 再び手をポケットに突っ込み、棒立ち状態で黄華を待つ恭也。
 黄華の瞳にも、拳にも、先程まであった迷いや不安はない。あるのはただ一つ、敵を貫くという信念のみ。
「すぅ……」
 呼吸を整え、踏み込みの一息の為の酸素を胸いっぱいに吸い込む。
「……破ッ!!」
 相手を貫くという気迫からか、僅かに踏み込みの速度が上がったのを恭也は見逃さない。
 だがまだ、彼の反応出来ない速度ではない。的確に間合いを読むため、ギリギリまで黄華を引き付ける。
 踏み込みの位置、黄華の目線、そして黄華のリーチから打点を見切り、バックステップでギリギリの距離を保って打点の後ろまで後退する。
 そう、打点を動かしただけでは、まだこの課題をクリアしたとは言えない。結局は後退する歩数が変わるだけで、結果は変わらないからだ。
(さて、どうでるか見ものです)
 恭也も、黄華がただ打点をずらしただけの拳を打つとは思ってはいない。まだ、何かあるはずだ。
 その何かに期待し口許を緩めた瞬間に恭也は、自信に満ち溢れた笑みを浮かべる黄華と視線が交差した。
「ぁああああ」
 恭也は既に、黄華が予め設定した打点より後ろにいる。だがもう届かない程間合いをあけられたわけではない。
 既に設定した打点に到達した黄華の拳が、ここに来て急激に加速する。否、拳だけではない。黄華の身体そのものが、恭也に向けて加速した。
(これは?!)
「あああああっ!」
 恭也は見た。黄華が踏み込むために蹴ったはずの後ろ足が、今踏み込んだはずの足を追い越して踏み込まれようとしているのを。
 これは剣道などで継ぎ足と呼ばれる技法で、自分の間合いを伸ばすためにあえて歩む様に蹴る足を前に出してから踏み込むことで踏み込みの距離を伸ばす技法だ。
 だが、黄華が今やって見せたのは、継ぎ足よりもう一段高位の技法。一度踏み込みきった状態から逆の足でもう一度踏み込む、言うなれば二段踏み込み。これならば距離は当然、踏み込みの速度も倍近いモノになるだろう。それも、インパクトの瞬間にその加速が得られるのだから、破壊力も倍増する。
(しまった、もう後がありませんね)
 どうやら調子に乗って後退し過ぎたようだ。間合いを離していたら、道場の壁がすぐ後ろまで迫っている。
(ですが、流石にこれは怪我をしてしまいますね。仕方ありません)
 恭也は僅かに重心をずらすだけで身体を横に倒し、拳の軌道から身体を外す。
 そして、標的を失った黄華の拳は、止める暇すらなく道場の壁に吸い込まれていく。
(しかしこれは、予想以上の逸材だったようですね。この拳は、きっと彼を救ってくれる)
 直後、道場には凄まじい轟音が響き渡った。






 時間は早朝、午前七時。陸上部所属の双御沢 鏡佳は、まだ寝巻きのまま学生寮の自室にいた。
 昨晩、急な眩暈に襲われ意識を失った鏡佳は、ルームメイトの勧めもあり今日一日学校を休むことにしたのだ。
 ルームメイトにはそんなに大げさな事ではないと説明し、担任の教師に説明だけ頼み学校へ行かせた。しかし、どうも鏡佳が気を失っている間に兄の部屋に連絡していたらしく、バイトを終えた空弥が、朝練にも行かずに見舞いに来ていた。
 八雲学園の学生寮は男女別にこそなっているが、各部屋に内線電話が設置され、部屋同士で連絡が取り合える形になっている。なまじ部屋数が多い故の措置だろう。その内線の録音メッセージに、昨夜鏡佳が倒れたと鏡佳のルームメイトの少女がメッセージを残していたのである。
「ごめんなさい、兄さん」
 二人部屋の学生寮の部屋にはベッドが二つ。その一つに寝巻きのまま横になった鏡佳が、申し訳なさそうに兄に話しかける。その顔色は優れない、まるで貧血でも起こしたように青白くなっている。
「鏡佳が謝ることはない。いいから大人しく寝ていろ」
 鏡佳と違い制服に身を包んだ空弥は、鏡佳と二人きりの時以外は決して見せない優しい笑顔を浮かべてその髪を梳くように頭を撫でてやる。
 今朝、夜勤のバイトを済ませて帰った空弥は、内線のメッセージを聞き学校に行ける準備だけ済ませ見舞いに訪れたのだ。
「最近はもう平気だと思ってたのに。ちょっと、恥ずかしいな」
 鏡佳もまた兄にしか見せない甘えん坊の妹の顔を、指先だけ出して掴んだ布団をずらして隠す。
「最近は特に=A普通ではない無茶をしていたからな」
 声も頭を撫でる手も優しいまま、特に≠セけやや強調して言う空弥は、それでもやはり笑顔のままだ。彼のクラスメートや陸上部員など、表向きの彼を知っている者ならば別人かと疑いそうな豹変ぶりである。
「怒ってる? 私がこんな戦いに関わった事」
「何を言っているんだ、鏡佳が自分で考えて決めた道なんだろう。それなら協力する理由にはなっても、怒る理由にはならないさ」
 しょうがないな、とでも言いそうな微笑みは、彼が本当に鏡佳を大切に想っている事が伺える。
「それにいつも言っているだろ、俺が鏡佳の我侭を聞いてやりたいんだ。だからそんなつまらない事は気にするな」
 空弥は頭を撫でていた手を離すと、手近にあった椅子に座り見舞いにと持ってきた林檎の皮を剥き始める。
 本来は自分の朝食用にバイト帰りに買った物だが、空弥にとって妹の体調不良とは自分の空腹よりも優先される事態なのだ。
 普段自分で食べる時は皮を剥いたりせずにそのままかじるのだが、その手際は人並みより遥かに手馴れている。昔からこうして鏡佳に食べさせていたというのが、ありありと想像できる。
「兄さん。それ、兄さんの朝ごはんだよね?」
 流石は妹、兄の性格どころか食生活まで把握しているようだ。
 鏡佳に指摘されても特に動揺した素振りは見せない辺り、空弥も指摘されることは予想の範疇だったのだろう。お互いに理解し合えている、実に良い兄妹だ。
「お前は元気になる事だけ考えていろ。それが病人の仕事だ」
 五分と掛からず林檎を剥き終え、更に並べて鏡佳に差し出す空弥。皿の上の林檎は、見事なウサギカットになっている。
「ふふっ、可愛い……」
 皿に整列するウサギに鏡佳にも少し元気が戻ったのか、自然と笑みが零れる。だがそれだけで、いつまで経っても鏡佳は布団から出ないで林檎を食べようとしない。
「どうした、昔みたいに食べさせて欲しいのか?」
 妹という存在は、男をここまで変えてしまうモノなのか。空弥はお日様と形容しても良さそうな優しい笑顔で、恥ずかしげも無くそんなことを口走る。
「うぅん、なんだか食べちゃうのが可哀相で」
 紅潮した顔を隠すように布団をずらす鏡佳。元気は出たようだが、食べさせるという目的には、ウサギカットは逆効果だったらしい。
「でも、兄さんが食べさせてくれたら、その……」
 恥じらいからか、鏡佳の声は布団に遮られてくぐもって聞こえる。それでも空弥は、一言一句聞き逃さない。鏡佳が絡んだときの空弥の身体機能は、通常の数倍の力が出ると言う噂があるくらいだ。当然、デマのはずだが。
 なので、純粋に空弥はお日様の笑顔のまま鏡佳の言葉に耳を傾ける。
「その……嬉しい、な……」
 恥じらいから囁き程の大きさで発せられる、それも布団に遮られた妹の言葉に、空弥の頬は更に緩む。
「まったく、しょうがないな」
 兄の了承の言葉に花が咲いたような笑顔を浮かべて布団から顔を出した鏡佳は、まだ身体に力が入らないようで、空弥に手伝ってもらってゆっくりと上体を起こす。
 空弥は予めウサギに刺していた爪楊枝を掴み、鏡佳が食べやすいようにそっと口元に持って行く。
「ほら、あ〜ん」
「あ〜ん♪」
 嬉しそうに空弥の差し出すウサギ、もとい林檎を一かじり。流石に一切れ一口でとはいかないので耳、ともい皮の付いていない方の半分を口に含む。
「美味いか?」
 恥ずかしさに頬を赤らめながらも嬉しそうに林檎を食べる鏡佳に、空弥が微笑みながら言葉を掛ける。当然鏡佳も、口の中の林檎を飲み込みそれに応える。
「うん、美味しいよ」
 林檎の甘みと酸味、果実特有の歯応えと果汁の瑞々しさ。美味しさの表現はいくらでも出来るだろうが、鏡佳にとっては表現する美味しさは一つで十分だ。
「兄さんが、食べさせてくれるから……」
 語尾が小さくなってしまうが、それでもはっきりと伝える。最早家族愛を超えた、二人の間にある兄妹愛。
「まったく、自分にもその半分は甘えてもいいんだぞ?」
 お前は自分に厳しすぎる、そんなことを言外に指摘されるが、鏡佳は笑顔のまま首を横に振る。
「駄目だよ。もし自分に甘えちゃったら、私はきっと自分に厳しくなれなくなるから」
 今までと変わらない、優しい笑顔。それは、か弱い少女の、何よりも強い意志。自分を支え甘えさせてくれる存在があるからこそ、自分は強く、厳しく生きられるのだと。
 それは空弥にも伝わったのだろう、表情に変化はないが瞳が一層優しい眼差しになった。
「そうか、だったらもう俺が口を挟む事じゃないな。ただし……」
 ウサギの庭、もとい林檎の皿を鏡佳に渡し立ち上がると、空弥は鏡佳の顔を覗き込むように腰を曲げる。
「病人の時くらい、自分の身体を労わってやれ。自分に厳しいのは元気な時だけで十分だ」
 つん、と人差し指で鏡佳の額を突っつき、もう一度頭を撫でてやる。
「は〜い、お兄ちゃん」
「やれやれ。それじゃお兄ちゃんは学校があるから、大人しくしているんだぞ?」
 子ども扱いされたお返しにからかうつもりだったのか、自分で言って赤面する鏡佳。逆に空弥は全く意に介さず、素で言葉を返す。妹相手なら歯の浮く台詞だって平然と言える男だ、このくらいは変化にはならないのだろう。
 最後に頭を撫でていた手でポンポンっと、親が子にするように頭を叩き、空弥は壁際に置いていた鞄を手に取る。
「いってらっしゃい、兄さん」
 住居が寮に変わり、交わす機会が減った家族の挨拶を交わす。
「あぁ、いってきます」
 そう返事をして部屋を去る兄の後姿を見送り、鏡佳は誰もいない部屋で静かに兄の置いていった林檎に視線を落とす。そして、空弥の足音が聞こえなくなってからそっと口を開く。
「ごめんなさい、兄さん。私の我侭が、兄さんを苦しめてるって知ってる。でも……」
 空弥に直接言えば、彼はいつものように笑って頭を撫でてくれるだろう。そう分かっていても、鏡佳は口にせずにはいられない。
 自分の戦う目的が、あまりに身勝手だと理解しているから。ただ、一人の少年に会いたい。戦場にいれば会えるかもしれない、だから戦う。
 そんなモノはあまりに身勝手で、家族とはいえ誰かを巻き込んでいいような理由ではない。鏡佳はずっとそう思っていた。
 だが、鏡佳は出会ってしまった。ずっと探していた少年に、敵とはいえ出会ってしまったのだ。
「やっと会えた。どんな形でも、神崎先輩は戦場(ここ)にいた」
 額の角と、容赦のない攻撃。でも確かにあの少年は、神崎 獅季本人だった。あの声と、仕草と、笑顔と、そしてあの瞳。間違えるはずも無い。もう一年間も見ていたのだから。
「ゴールは……ううん、スタートラインは見えた。後は、踏み出すだけ」
 探していた少年に出会えた、それは鏡佳の戦いのスタートライン。
 ウォーミングアップは終わらせた。
 もう待つ必要はない。そして、ゴールに向けて走り出せば、後は立ち止まる必要すらない。
 一度走り出したスプリンターは、曲がる事も、立ち止まる事もない。ただ只管に、ゴールまで走り続ける。
 鏡佳は誰もいない静かな部屋で、静かにスタートの合図を聞き逃さない様に耳を澄ませる。
 走り出す、その瞬間に全ての力を爆発させる為に。






 高級住宅区の一角、既に廃屋と化したはずの古びた屋敷の中に、二人の少年の姿があった。
「獅季、大丈夫か?」
「まだ平気だよ。タツトこそ、大丈夫?」
 一切の明かりのない部屋の中、額に角を持つ二人の少年はどこか焦っている様に見える。
タツトは壁にもたれながら邪竜刀の柄を何度も握り直し感触を確かめ、獅季はソファーの上で膝を抱く様にに蹲って闇獅子を抱えている。だが二人の瞳はどこか血走っていて、まるで血に飢えた獣の様だ。呼吸も嫌に荒い。
「邪神鬼の野郎、オレ達は所詮道具だってことかよ」
 ギリギリッと音が鳴るほど邪竜刀の柄を握り締め、タツトが怒りに歯を食いしばる。その姿はただ感情を露わにしているのではなく、身体を蝕む激痛に耐えているのか全身に脂汗を浮かべている。
「最初から、そのつもりだったんだね。僕等を使って幻獣勇者を、っ!」
 どうやら獅季もタツトと同じ状態らしい、ソファーに蹲っているのは痛みを耐えているだけのようだ。闇獅子を握る指も、力の入れ過ぎで血の気が引き白くなっている。
「まだだ、まだ野郎の思い通りにさせて堪るかよ!」
 邪竜刀を握っていない方の手で拳を作り、もたれている壁に叩き付ける。
「まだやり残したことが、あるからね。せめてそれまでは」
 二人の少年、否、二人の邪鬼はどちらからともなく視線を合わせ、頷き合う。そして、手にした刀を鞘から解き放ち、自身を戦場へと導く力を召喚する。
「唸れ、邪竜刀……」
「喰らえ、闇獅子……」
 鞘から解き放たれた漆黒と鮮血の刀身は、主の言葉に呼応し鳴動する。鳴動はやがて闇を伴って二人を包み、部屋を満たしてゆく。
「「幻獣、招来ッ!」」
 呪文の詠唱と同時に闇は収縮し、後には誰もいない真っ暗で殺風景な部屋だけが残っていた。






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