八雲学園高級住宅地の一角にその屋敷は建っていた。 元が良い作りのお陰か形自体はそのままだが人が住まなくなってから時間が経っているのだろう、庭の草木は手入れがされずに伸び放題、塀や屋敷の壁も汚れたままで見る者にお化け屋敷を連想させる。 そんな屋敷の中、一人の少年が明かりも灯らない部屋に置かれたソファに腰掛けている。 「残念だよ、炎狼鬼。 やっぱりキミじゃ役不足だったみたいだね」 少年は何もない部屋の中央に視線を向け、口許にだけ微笑を浮かべる。 「でも安心して、今度は僕が戦うから」 少年はソファの端に立て掛けていたモノに手を伸ばし、徐にそれを自分の前まで持って行く。 それは刀、鞘に納まったままの真剣だった。 少年は獣の檻の扉を開くように、ゆっくりと慎重に刀を解き放つ。 「この闇獅子(やみじし)も、早く斬りたいって言ってるしね」 解き放たれた刀身は、夜よりも暗く闇よりも深い漆黒の色から背筋が凍るほどの存在感を放っている。 それは正に、闇の中に現れた、血に飢えた魔獣の如き存在感。 「もう少しの辛抱だよ、アレを手懐けるまでは動けない・・・・」 刀を鞘に戻しややつまらなそうに呟く少年は、何かを思いついたのか急に表情が変わる。 「そうだ、代わりにキミの創った鎧を使わせてもらうよ。 キミも幻獣達に一矢報いたいよね、炎狼鬼」 自分の思い付きがそんなに可笑しかったのか、少年はその後しばらくの間、闇の中で笑いを漏らし続けた。 「ふふふふ、あははははは、あははははははははははっ・・・・」 勇者幻獣神エスペリオン 第6話:『兄妹』 世界とは、無情にも回り続けるものである。 たとえ街中に巨大なロボットや怪獣が現れても、人々の気付かぬ内に街の一角が破壊されていようとも。 それがたとえつい先週の事であっても、世界は変わりなく回り続ける。 6月も中旬を迎え運動系の部活が夏の大会に向け本格的な練習を始める頃、ここ八雲学園でも同じようにハードな練習が行われていた。 陸上競技用に設置された第四運動場、トラックの直線上にセットされた100メートルコースの片側に人が集まっている。 なんでもレギュラー決定の自己ベスト測定を行っているらしく、短距離走の部員以外の陸上部員も見物に集まったようだ。 スタートラインにクラウチングスタートの体勢で手を突いているのは少女、ここでは女子の計測を行っているようだ。 セミロング程の髪をポニーテール状に結わえランニングの上下に身を包んだ少女は、活発なイメージは無くむしろ大人しそうな雰囲気を持っている。 彼女の名は双御沢 鏡佳(ふたみざわ きょうか)、今年の高等部のホープと噂されるスプリンターである。 鏡佳の見据える先、コースのゴール脇には他の部員が笛とストップウォッチを手にこちらを見ている。 恐らく鏡佳のスタンバイを待っているのだろう、鏡佳が一つ頷いて見せると相手もまた頷く事で返す。 後は笛が鳴るのを待つだけ、今にも飛び出したい身体を全神経を研ぎ澄ませ押さえ込む。 あまりに研ぎ澄まされた神経は、自分の鼓動の音さえも耳に届け、現実と精神の間に感覚の差を生むほどだ。 鏡佳はそんな状態の中たった数秒を数分にも感じながら、突然聞こえる笛の音に全身の抑制を解き放ちスタートを切る。 その瞬間から鏡佳の全神経は走る事だけに働きかけ、時間の経過さえも感覚から除外される。 ただ少しでも速く、少しでも先に、その想いが鏡佳の身体を動かす。 不意にゴールを越え、3メートルほど行き過ぎていることに気付き減速する。 全力を出せたはず、でも自分はまだ速くなれる、そんなことを考えながらタイムを計測してくれた部員の下へ歩み寄る。 「どうかな?」 自分の走りに不満があることは表に出さず、満足気な顔で聞いてみる。 「すごいね鏡佳、11秒36、自己記録更新だよ」 「もう3年でも敵わないわね、男子よりも速いんじゃない?」 「今年から3年間、鏡佳があたし達の星だよ」 すると中学の頃から一緒だった友達が口々に鏡佳を褒め称え、男女や年齢に関係なく集まっていたギャラリーからも感嘆の声が上がる。 「アレが期待の新人か、確かに速いな」 「俺、自己ベスト負けちまった・・・・」 「あ〜あ、今年はレギュラー取られちゃったな」 鏡佳へと向けられる期待と羨望の眼差し、その中で一人の男子が鏡佳に歩み寄る。 「双御沢君、少しいいかい?」 「あ、はい」 その男子は八雲学園大学部の生徒で、しかも陸上部の一昨年のレギュラーメンバーだ。 去年は怪我で入院していたとかで、部活には顔を出していなかった為、去年中等部の3年に編入した鏡佳の存在は知らなかったのだ。 故に鏡佳に声を掛けたのも邪な考えは無く、純粋にスプリンターとして速いスプリンターに興味を持っただけなのだ。 「っ・・・・」 男子学生が次の言葉を発しようとしたその瞬間、1メートル強程しかない鏡佳との間を高速で何かが通過し言葉を遮ってしまう。 同時に周囲からは驚きと呆れ、二つの声が漏れる。 「な、なんだ・・・・いったい・・・・」 何が起ったか把握出来ない男子学生は、狼狽して通過した何か≠探す。 それは直ぐに見つかった。 男子学生からものの2・3メートル程度の距離で、一人の少年が腕時計を操作しているのだ。 「・・・・・・・・記録更新、だな・・・・」 その少年の姿に僅かに怒りを覚えた鏡佳は、気付いていないかのように背を向ける少年に歩み寄る。 (もう、兄さんったらまたこんな事して・・・・) 突然鏡佳と男子学生の間を通過した少年、名前を双御沢 空弥(ふたみざわ くうや)という。 高等部二年、男子陸上部所属の鏡佳の兄だ。 「兄さん、また・・・・」 「鏡佳、そろそろ時間じゃないのか? 今日はバイトだと言っていたろ」 更にあからさまにさり気なさを装う空弥、明らかな誤魔化しの言葉で鏡佳の言葉を遮る。 しかし空弥の言葉は事実で、鏡佳は腕に付けている時計に目を落とす。 「あ、もうこんな時間・・・・」 腕時計の指す時間はアルバイトの始まる1時間前、色々と用意することを考えればいい加減いい時間だ。 鏡佳が早引きする旨を女子部の部長に報告しに行くと、いつも通り快く了解してくれる。 「ありゃ、でも今日は居残りの日じゃなかったかい?」 振り返り更衣室へ向かおうとしたその時、部長のふとした疑問に鏡佳の肩がビクリと跳ねる。 このやり取りは去年からの事で、部長も他の部員も慣れたものだ。 アルバイトで抜ける分は他の日に確りと練習しているし、結果も残している。部としても反対する理由は何もない。 それ故に大体何曜日がアルバイトで、何曜日が最後まで部活に参加するか自然と覚えてしまうのだ。 「今日はその、友達が病気で入れなくなったから、その代わりなんです」 部長に向き直りながら、どこか後ろめたそうに答える鏡佳。 「ふ〜ん、ま、遅刻しないようにね」 信じたのか、それとも気にしないのか、部長はヒラヒラと手を振って見送ってくれる。 「あ、はい、お疲れ様です」 部長にペコリと頭を下げ、鏡佳は踵を返し靴紐を結び直している空弥の前に立つ。 「兄さん。 もう止めてよね、あんな事」 そう言うが返事をされない事も解っているので、答えも聞かずに更衣室へと走り去る鏡佳。 勿論空弥もあんな事≠フ意味を理解しているが、止める気は毛頭ない。 鏡佳の姿が更衣室に消えたのを見届けると、空弥もまた男子部の部長に早引きの報告をする。 理由は鏡佳と同じ、空弥もこれからアルバイトである。 八雲学園は基本的にアルバイトを禁止はしていない、それどころか届けさえ出していればある程度は大目に見てくれる所がある。 ただ部活とアルバイトを両立している者は皆無と言って良い程で、そんな中双御沢兄妹は異色な存在だ。 「あの二人、一体なんなんですか?」 鏡佳と話し損ね、一部始終を傍観していた男子学生が、ポツリと口から漏らす。 「そういえば去年は入院してたんだっけ、知らないのも無理ないねぇ」 更衣室の方へ歩み去る空弥を見ながら可笑しそうに笑う女子部の部長、しかしその表情は何処か笑っているように見えない。 「あの二人は少し特殊なんだ。 仲良く・・・は無理でも、出来るだけ普通に接してやってくれ」 何処か沈痛な面持ちで男子部の部長が言葉を濁した。 更衣室に入った鏡佳は、出入り口の扉に背を預け両の目蓋を閉ざしている。 更衣室で独りになることで、鏡佳の中に不意に思い起こされる昔の記憶。 今でこそ気にしてはいないが、鏡佳達兄妹がこれまで過ごしてきた生活、それはまだ幼い子供が過ごすには余りにも痛々しいものだった。 空弥と鏡佳、二人はごく普通の家に生まれた兄妹だった。 兄の空弥は身体に恵まれ、特に走る事に関してはずば抜けた運動神経を持っていた。 逆に妹の鏡佳は身体が弱く、週に1度は1日ベッドの上ということが常だった。 空弥は常に身体の弱い鏡佳を護るよう両親に言い聞かされ、しかし自分を束縛する鏡佳という存在を疎ましく感じていた。 鏡佳は鏡佳で、健康な身体を持ち友達と仲良く走り回る空弥の姿に、妬みの感情を抱いていた。 そんな兄妹としてはお世辞にも仲の良いとは言えない二人の関係は、時間と共に少しずつ変わっていった。 小学校の高学年になる頃には鏡佳も身体が人並みには丈夫になり、陸上部に入部し走るようになった。 元々の身体の弱さの所為で持久力が乏しい鏡佳は、それでも諦めず短距離走専門として走り続けた。 その直後、空弥も突然に陸上を始め、鏡佳の側にいる時間を増やすようになった。 同時に鏡佳のことを良く気に掛けるようになり、概ね何処にでもいる仲の良い兄妹へと関係を変えていた。 そうして兄妹の仲も回復し今まで以上の幸せな家族との生活が続くはずだったが、空弥が中学へ上がると同時に両親が事故で他界、残された兄妹は親戚の家に預けられる事になる。 そこで兄妹を待っていたのは、予想を越える恐怖と絶望と虐待の日々だった。 なんでも鏡佳達の両親は親戚の間ではかなり評判が悪かったらしく、それに対しての不満不平を鏡佳達兄妹にぶつけてきたのだ。 暴力は当り前、時には丸一日食事にさえ出してもらえない事もあった。 昔から少し気の強い所があった空弥は、直ぐに反発しそれが切っ掛けで別の親戚へと預けられた。 そんなことをほとんど一年毎に繰り返し、空弥が中学を卒業する頃には引き取る親戚などいなくなっていた。 そんな時、声を掛けてきたのが八雲学園の学園長だった。 奨学金制度を適用し兄妹に八雲学園に入学しないかと、話を持ちかけたのだ。 在学中は寮での生活も約束され、兄妹はなされるがままに八雲学園へと入学した。 そこは正に新天地、どんな状況においても個人の能力を最重視され、兄妹を虐げる者も仲の良かった友達も誰一人としていなかった。 兄妹は決まっていたかのように陸上部へ入部し、すぐさま結果を残し期待の新人として好奇の目を向けられるようになった。 だがそこで問題が起きた。空弥は鏡佳に対して異常に過保護になってしまっていたのだ。 親戚の家で虐げられる鏡佳を護り続けた所為か、空弥は少しでも下心や悪意を持つ者から鏡佳を遠ざけるようになったのだ。 そしてそれは最終的に、良からぬ男が鏡佳に近付くだけで邪魔に入る超怒級シスコン≠ニいうレッテルを空弥に貼り付けた。 そう、丁度先程男子学生が近付こうとした時に空弥が割って入ったのは、正にコレである。 これは鏡佳にとっては悩みの種でしかないのだが、空弥の優しさからの行動だということも理解している為一方的に怒る事も出来ないのだ。 ちなみに二人がアルバイトをしているのは、自分たちの生活費と奨学金返済のためだ。 在学中ならある程度は生活費も援助してくれるのだが、それも最低限であるため足りない分は自分たちで稼いでいるという事だ。 それに学校側で援助しきれない出費も当然あるわけで、そのためにも自分で稼ぐというのは必要な事だった。 この事を詳しく知っているのは学校側の一部の教師と、陸上部部長の二人だけである。 それでも普通に見ても特殊に見える二人だ、直ぐに色々な噂が流れる。 親がいないことも、直ぐに学校中が知ることとなった。 とは言っても二人が特別視される事は殆ど無く、その辺りは流石八雲学園といった所だろう。 なまじ全国から生徒を集めているだけあって、特殊な生徒など決して珍しくはない。 両親がいないという点だけなら、あの紅月 竜斗とて同じ事。 結局噂が立とうと兄妹の生活が変わるわけでもなく、たった二人の家族は自分の道を歩んでいる。 高校生が歩むには早過ぎる、しかし日常と化した生活。 それが兄妹の全てだった、少なくとも鏡佳にとっては。 「・・・早く着替えないと・・・・」 昔を思い出していた鏡佳は、我に返ると時計を確認してから制服へと着替える。 そうして慌て気味に制服に着替え最低限の身支度をしながら、鏡佳は僅かな罪悪感に苛まれる。 兄や部長にはアルバイトだと言ったが、今日アルバイトの予定はない。 普段から嘘の吐けない鏡佳は、こうした少しの嘘にも罪悪感を感じてしまう。 (でも、先輩に会うためだから…) そう、鏡佳はアルバイトと偽って時間を作り、八雲学園総合病院へここ半月程姿の見えない獅季を探しに行くつもりなのだ。 「よしっ!」 練習中に崩れてしまった髪を一度解き結い直し、小さく自分に気合いを入れる。 再度時計を確認する。 この時間なら駅前行きのバスが丁度来るはずだ、普段からアルバイトに行くのに使っているのと同じ時間なので間違いない。 鏡佳が学校区内に設置された内の運動場付近の停留所に来ると、予想通り駅前行きのバスが到着する。 帰宅部は帰り部活の途中であるこの時間は学校区から乗る生徒は皆無で、ガラリと空いた車内を見渡すと鏡佳は適当な席に腰を下ろす。 「・・・ふぅ・・・」 落ち着いたことで思考し始めた鏡佳の頭は、直ぐに獅季のことで一杯になる。 最初に浮かぶのは、獅季との出会い。 その出会いは鏡佳にとって余りにも突然で、そして劇的だった。 それは半年ほど前、鏡佳が走りで伸び悩んでいた時のことだ。 その日はアルバイトも無く、下校時刻を過ぎてもグラウンドで走り続けていた。 下校時刻と言ってもあくまで学校という場所であるが故に設定された時間であり、学校側は生徒に厳守させてはいない。 ある程度の限度を考え教師が見回りはするが、放課後の時間に関しては意外と緩いところがある。 下校時刻から2時間ほど経ち、タイムを計るパートナーも帰った後、鏡佳はがむしゃらにスタートとゴールを繰り返していた。 「はぁ・・・はぁ・・・、・・まだ・・・もっと・・・速く・・・・」 大きく肩で息をし疲れを滲み出しながら、フラフラとした足取りで鏡佳はスタートラインへと戻る。 元々身体が弱かった鏡佳は今でも持久力が乏しく、短距離走者になったのも必然的である。 そんな鏡佳が短距離とはいえ何時間も休み無く走り続ければ、当然体力の尽き最悪倒れてしまうだろう。 それでも自分の走りに納得がいかず、今まだ練習を続けている。 もっと速く走れる、もっと速く。そんな意識が鏡佳を駆り立てているのだ。 「もっと・・・速く・・・っ!!」 スタートラインに着き、呼吸を整えて直ぐに走り出す。 だが少しくらい呼吸を整えたくらいで身体に溜まった疲労が抜けるはずも無く、走り出して数歩で足がもつれてしまう。 「・・・っ?!」 地面との衝突に目蓋を閉じ、両手を顔の前に出す鏡佳。 衝突の恐怖に目蓋を閉じて数瞬、予想に反して鏡佳の身体は傾いたまま止まっていた。 「間に合ってよかった、大丈夫?」 状況を掴めないでいる鏡佳の耳に届く優しい少年の声。その声に恐る恐る目蓋を開くと、鏡佳の身体は見知らぬ少年に抱き止められていた。 「ぇ・・・ぁ・・・・」 何か言おうとするが、鏡佳は思考が麻痺してしまい言葉にならない。 その間にも、少年は鏡佳の身体を支えて立たせてくれる。 「怪我は・・・無いみたいだね、立てるかな?」 「ぁ・・・はぃ・・・」 なんとか返事はしたものの、思考が回復しきらない鏡佳はボーっと少年を見つめる。 「ん? 僕の顔に何か付いてる?」 自然と心が和むような微笑を浮かべる少年は、やはり優しく囁くように言葉を紡ぐ。 その辺りでようやく思考が回復し、急に恥ずかしくなった鏡佳が慌てて少年から離れる。 「あっ? あの、ありがとう・・・ございます・・・・」 「ふふっ、思ったより元気そうだね」 どこか線の細い少年は柔らかく微笑むと、人差し指を立てて見せる。 「だけどあまり根詰めすぎると、身体壊しちゃうよ? もっと自分を大事にしないと、ね」 小さな子供に説いて聞かせるようなお説教に、鏡佳も思わず笑みを漏らしてしまう。 「えっと、僕、何か可笑しなこと言ったかな?」 鏡佳の笑みに困ったような顔をするが、そんな表情をされると逆に鏡佳の方が困ってしまう。 「ぁう・・・ごめんなさい、でもなんだか可笑しくて」 少年にそう返事をした時、さっきまで自分の中にあった焦りの様なものが消えている事に鏡佳は気付いた。 それと同時に落ち着いた思考は次々と疑問を浮かべ、状況把握のために回転を始める。 「あの、ありがとうございます。 お陰で怪我もしないですみました」 礼儀正しく少年に頭を下げる鏡佳は、見て取れる部分から情報を集める。 (えっと、この制服は、高等部一年生のだったよね。手に持ってるのは剣道の竹刀・・・かな?) 「うん、怪我が無くてなによりだよ。 ずっと気になってたからね」 そう言って心底安心したような表情を見せる少年。 ちなみにこの八雲学園は小・中・高等部と制服があり、それぞれデザインが違う。 しかも色などで学年まで分かるようになっているので、その辺を把握していれば鏡佳のように制服だけで何部の何年生か分かるのだ。 「あの、ずっとって?」 「あ、うん、さっき独りで走ってるのを偶然見かけてね」 なんでも少年は下校時刻を知らせるチャイムが鳴っていた頃に、鏡佳の姿を見ていたのだという。 「少しくらいならいいけど、居残りも程ほどにね。って、僕が言うのも変かな」 この時間に学校区にいるということは、つまりは彼もまた居残りをしていたという事だ。 性格というか性分というか、彼は自分の練習を終えてから気に掛けていた鏡佳の様子を見に来たところでさっきの場面に出くわしたのだと言う。 「すみません、気を付けます」 しゅん・・・という擬音を付けたくなる様な仕草と表情で答える鏡佳。 「そんな顔しないで、双御沢 鏡佳ちゃん・・・でよかったかな?」 確認するように名を呼ぶ少年に、鏡佳は驚きで固まってしまう。 「ぇ・・・名前・・・なんで・・・?」 「陸上部に中等部の女の子ですごい娘がいるって、聞いたことがあったから。もしかしてって思ってね」 言ってから少年は右手を差し出し、握手を求める。 「僕は神崎 獅季、剣道部所属の高等部の一年生です」 「ぁ、はい、双御沢 鏡佳です・・・って、あの$_崎先輩ですか?!」 握手しながら少年、獅季の名を聞き、突然素っ頓狂な声を上げる鏡佳。 それもそのはず、獅季はこの当時から全校生徒の約半数、所謂女子に絶大な人気を誇る剣道部の静かなる獅子≠フ二つ名を持つ有名人である。 この学校の女子でその名を知らない者はそうはいないだろう、そんな相手とこうして面と向かって話していると思うと緊張だってするだろう。 「どんな噂を聞いてるかは分からないけど、うん、多分その神崎だよ」 思いっきり恐縮してしまう鏡佳に苦笑するが、もう慣れたとでも言うように微笑んで見せる。 「そろそろ先生が見回りに来るね、片付けはしておくから帰り支度してきなよ」 「でもあの・・・・」 流石にそこまでしてもらうのは申し訳ない、そう思い申し出を断ろうとする鏡佳だが獅季は更に言葉を続ける。 「見つかっても怒られはしないと思うけど、もう暗くなってきたし甘えてくれると嬉しいな」 そう言って微笑む獅季には、無条件で頼ってしまう不思議な力があった。 「すみません、すぐ着替えてきます」 なんだか獅季の顔を真っ直ぐ見れなくなり、鏡佳は逃げるようにして部室へと駆け込んだのだった。 その日は結局その後寮まで送ってもらい、鏡佳はちょっとした幸せ気分を味わう事になった。 その一週間後、皆が下校時刻で帰った後に剣道場を覗きに行くと、そこにはやはり独りで稽古に打ち込む獅季の姿があった。 それからというもの、その曜日のこの時間は鏡佳にとって特別な時間になった。 空弥はアルバイトで夜まで鏡佳に会いに来る事はないし、下校時刻を過ぎることで他の生徒にも邪魔はされない。 直接話したりはせずただ外から覗いているだけだったが、鏡佳にとっては獅季と二人の時間になったのだ。 そんなことをしていて鏡佳は自然と理解した、自分は獅季に恋をしているのだと。 憧れとかそんな生易しいものじゃない、自分ではどうしようもない感情が泉のように湧き出てくる。 少しでも獅季に近付きたいという思いと、獅季にとって自分は数多く声を掛けてくる女子の一人に過ぎないのではないかという思いの葛藤。 声を掛けようとしたが、どうしても最初の一歩が躊躇われた。 そんな風に距離を縮められないまま、半年が過ぎたある日予想もしない出来事が起こった。 (あの日から先輩は・・・・) そう、最近街を騒がせている謎の怪物の襲撃があったあの日から、鏡佳は獅季の姿を見ていない。 最初は何かあったのだろうと気に掛ける程度だったが、例の噂を聞いて目の前が真っ暗になったのを今でも覚えている。 神崎 獅季が怪物に襲われて入院した 瞬く間に学校中に広まった噂は鏡佳の元にも直ぐに届いたが、どれだけ友人に聞いてもその詳細は知る事は出来なかった。 学校の教師に聞いても答えは決まって「面会謝絶の状態だから会えない」との事だった。 どれだけ情報を集めても、どんな人間に聞いても、何処に入院しているという正確な情報は出てこなかった。 そして半月程経った今日、鏡佳は色んな人に嘘を吐いてここにいる。 八雲学園総合病院、学園の生徒が入院するならまずここを思い浮かべるのが普通だ。 面会謝絶でも、少なくとも入院しているかどうかくらいは分かるはずだ。 『八雲学園総合病院前〜、お降りの方は・・・・』 バスのアナウンスが流れ、鏡佳の意識が現実へと引き戻される。 学生証を見せバスから降りた鏡佳は、迷わず真っ直ぐに病院内へ入る。 自動ドアを潜り、待合所にもなっているフロアを抜け受付まで一直線に進む。 丁度誰も並んでいない受付の前に立ち、鏡佳は周りに気付かれないくらい小さく深呼吸する。 「あの、すみません」 「はい、なんでしょう?」 若い受付の女性は、柔らかい笑顔で鏡佳に応えてくれる。 「友人の面会に来たのですが・・・」 「はい、かしこまりました。面会を希望する患者と貴方のお名前をお願いします」 面会者の記録表なのだろう、受付のテーブルに置いてあったファイルを開くと女性はボールペンを手にする。 「患者の名前は、神崎 獅季です。学園の生徒です」 鏡佳から獅季の名前が出た途端、女性の表情から柔らかさが消えた。 「・・・・申し訳ありません、その患者は現在面会謝絶中でして、誰もお通しする訳にはいきません」 勤めて優しく、しかしどこか事務的な返答。 半分は予想していたとはいえ、やりきれない感情が込み上げて来るのは別問題だ。 「という事は、神埼先輩はここに入院しているんですね?」 やや語気を荒げて訊ねる鏡佳、この女性には悪いが今の鏡佳には獅季の所在を知る事が最優先だ。 「面会謝絶ですので病室を教えるわけにも行きません」 同じ答えを返す受付の女性に、鏡佳は追い討ちを掛ける様に次の言葉を放つ。 「病室を聞いてはいません、ただ入院しているかどうかが知りたいだけです」 面会謝絶だと言っている以上ここに入院していると言っているようなものだが、それでも鏡佳は明確な答えを聞くまで下がるつもりは無い。 「ですからその患者は面会謝絶になっています、後日御来院ください」 「私は入院しているかどうか聞いているんです、答えてください」 感情は抑えるつもりでいたが、獅季の事で思っていた以上に思いつめていたのか僅かに怒鳴るような口調になってしまう。 それでも鏡佳の思考はどうすればより獅季の情報を引き出せるか、その方法案を次々と算出してゆく。 (大丈夫、私は冷静だ。とにかく今は少しでも先輩の手がかりを・・・・) 自分の質問に対して返ってくるであろう返答を予測し、次の質問へと切り替える。 「それなら・・・・」 「その辺にしとけよ、こいつ等はそう言う様にしか指示されてねぇんだ」 次の質問を口にしようとした鏡佳を、誰かが肩に手を掛ける事で制する。 咄嗟の事で言葉を止めた鏡佳、そして顔を真っ青にして固まっている受付の女性。 「大方、獅季について聞かれたら会わせられねぇっ言って、追い返すように指示されてるんだろ」 鏡佳を制する声と手、その持ち主はあろう事か竜斗であった。 「紅月・・・先輩?」 獅季といる事の多かった竜斗の顔は、鏡佳も自然と覚えていたがここで声を掛けられる事が理解できない。 しかも竜斗の方も、誰とも知れない他人に声を掛けているわけではなさそうだ。 「こいつ等にどれだけ問いただしてもそれ以外答え様がねぇんだから、ここに居ても無駄だぜ」 言ってから竜斗は親指で病院の外を指し、背を向けて歩き出す。 竜斗の意図を理解した鏡佳は、受付の女性に一言謝ってからその後ろについて行く。 「あの、紅月先輩、どうしてここに・・・」 鏡佳の疑問ももっとも、本来なら竜斗は今部活中のはずだ。 それがバスで30分近く掛かる病院にいるのだから、不思議に思うなという方が無理というもの。 「多分お前と同じだ、自分の考えが合ってるか確認しに来た」 ある程度病院から離れてから、鏡佳に向き直り話し出す竜斗。 「前に俺が行った時も、お前と同じで相手にされなかったんだ」 そこで初めて竜斗が苛立たしげな顔を見せ、再び歩き出す。 竜斗は特別疲れても汗をかいた風も無い、どうやら部活には参加していないようだ。 「獅季の事、聞きてぇんだろ。ちょっと長くなるぜ」 「・・・はい、お願いします」 鏡佳がついて来ているのを確認しつつ、竜斗は近くの喫茶店に入っていく。 竜斗が入った喫茶店は商店区の表通りにある、八雲学園生徒御用達の店である。 実際、席は離れているがちらほらと学園の生徒が見受けられる。 鏡佳をつれて奥の席に座った竜斗は注文した飲み物が運ばれてきたところで、ようやく口を開いた。 「っと、一応自己紹介だ。俺は紅月 竜斗、そっちは双御沢であってるよな?」 「はい、双御沢 鏡佳です。それで、神埼先輩の事って・・・」 他にもいくつか聞きたいことはあったが、どうしても早く獅季の事を知りたい。 失礼だと思いつつも、どうしても感情が先走ってしまう。 「結論から言うと、俺も何処にいるかは解らねぇ」 竜斗の言葉を聞いてあからさまに愕然とする鏡佳、折角手掛かりが見つかったと思っていたのだから仕方ないだろう。 「・・・そう、ですか・・・・・」 「ああ、悪ぃな、変な期待させちまって。けどよ、少なくともあの病院にいない事だけは解った」 謝罪と共に竜斗が口にしたのは、鏡佳が持っていない新しい情報だった。 「今日、獅季の家に行ってきた。おじさん達なら何か知ってると思ってな」 コーヒーで口を潤しつつ、竜斗は話を続ける。 「けどおじさんもおばさんも、獅季の行方は知らねぇそうだ。入院中なんて話は俺から聞くまで知らなかったそうだ」 「それは、誰かが神埼先輩の失踪を隠蔽している、ということですか?」 竜斗の情報から導き出される答えといえば、それが妥当なところだろう。 それは勿論竜斗も解っているようで、無言で頷く。 「それで病院までカマ掛けに行ってきたんだ。これで裏に誰かいるのは解ったぜ」 竜斗の言葉に顔色を真っ青にして固まっていた受付の女性が思い出される。 恐らくはバレない様にと指示されていたのに、バレてしまったと事に混乱していたのだろう。 「でも、どうしてそんな事を・・・・」 「行方不明を隠したいんじゃなくて、その原因を隠してぇんだと俺は思ってる」 竜斗は獅季の失踪に邪鬼が絡んでいると考えている、理由としては炎狼鬼の言ったあの言葉が原因である。 確かその時に威勢の良いガキがいたな、余興にもならなかったがな そして残されていた折れた木刀と、破壊された教室。 この状況を見る限りでは、教室で獅季が炎狼鬼と戦ったのは明白だろう。 「原因って、例の鬼≠ノ関係しているんですか?」 鬼≠ニは、八雲学園内で報道された邪鬼を表す言葉だ。 多数の目撃証言にあった、額に角を持つ怪物≠ニいうキーワードからそう報道されたようだ。 「ああ、多分それ絡みの行方不明者を隠してるんだろうぜ。市民に余計な不安を抱かせないため、ってトコだろ」 話が進むにつれ、鏡佳の顔色がどんどんと悪くなって行く。 恐らく獅季の事を考えすぎるあまり、良くない想像をしてしまったのだろう。 「でも、だったら神埼先輩はもう・・・・」 「それ以上は言うな、そんな事は絶対に無ぇ」 鏡佳の最悪の発言を、竜斗の厳しい声が遮る。 「俺も最初はそんな風に思ったよ。けど、それじゃダメなんだって気付いたから」 そう言う竜斗は、無意識のうちに握る拳に力が込められていく。 最悪の事態を想像し絶望してしまえば、竜斗は幻獣勇者として戦えなくなる。 だから竜斗は絶対に獅季が生きていると信じている、そして必ず見つけ出すと誓っている。 「それに、死人を隠す必要もねぇだろ。絶対に生きてるさ」 この気持ちは竜斗の本心だろう、自分と同じように獅季を探そうとした鏡佳に対して偽りの無い気持ちを伝えたのだろう。 「ただ相手が街中に根回しできる程なら、高校生のガキがどうにか出来る相手じゃねぇのも確かだ。今は生きてる事を信じて待ってるしかねぇだろ?」 「・・・・はい、私も神埼先輩の事、信じてますから。でも・・・・」 竜斗に同意し感慨深く頷く鏡佳は、しかしそこで終わらず言葉を続けた。 「紅月先輩、まだ何か隠してますよね?」 竜斗を射抜かんばかりの視線を向ける鏡佳、そこには確かに竜斗への疑いの感情が表れている。 「確かに納得は出来ると思います、でもその話は憶測に過ぎません。でも紅月先輩は憶測以上の、確信的な何かを知っているように思えます」 先程まで見せていた大人しそうな雰囲気からは想像も出来ないような挑発的な口調で、竜斗を問いただす鏡佳。 「紅月先輩が直接行方を知っているようわけではないと思いますが、それに近付くための何かを隠している。違いますか?」 これは鏡佳にとって賭けだった。 確かに竜斗に確信めいた何かを感じたのは本当だが、それが何なのかは予想もつかなかったし自分を諦めさせるためワザとそういう態度を取っているのかも知れない。 「・・・・・・・・」 「・・・・・・・・」 鏡佳と竜斗、二人の間に重い沈黙が流れる。 鏡佳は自分の読みが何処まで正しいか解らずに口を噤み、竜斗は幻獣勇者という秘密を勘繰られたのかと言葉に悩んでいた。 (何かを隠してるのは確かだけど、でも一体何を・・・・) (どうする、無関係なヤツに幻獣や邪鬼の事を話す訳には・・・・) 表に出さない思考を互いに巡らせ、逆にどちらとも次の言葉を出すタイミングを失ってしまう。 そんな時に沈黙を破ったのは、全くの予想外の、否、ある意味ではこの状況に相応しい人物だった。 「鏡佳、こんな所で何をしている?」 静かに鋭く通る声は、名前を読んでいるにも関わらず竜斗への敵意に満ちている。 「兄さん・・・あの、これは・・・・」 そう、二人の沈黙を破ったのは、鏡佳の兄・空弥であった。 何やら様々なモノで汚れたツナギを着た空弥は、鏡佳と向かい合って話しをしていた竜斗を睨みつけている。 ツナギは恐らくアルバイト用の作業着なのだろう、工事現場などでも良く働いている事からこの服が都合がいいようだ。 「妹に何か用か?」 「ああ、立ち話もなんだったんで少しお茶をな」 竜斗としてもここまであからさまな敵意を向けられて、黙って入れる程人は出来ていない。 空弥の敵意に挑発を以って応える。 「妹に近付くな。手を出してみろ、ただでは済まんぞ」 「へっ、そうやって妹の自由奪って楽しいかよ」 竜斗と空弥の間で視線がぶつかり合う、火花でも散らしかねない剣幕だ。 「いいか、妹は貴様らとは関係ない。余計な事に巻き込むな、そんなモノは貴様らだけで勝手にやれ」 「ああ?! 何の話だ、別に何も巻き込んでなんかいねぇよ」 だが言ってから竜斗は、空弥が明らかに自分を通して別のモノを見られている気配を感じた。 (コイツ、まさかエスペリオンに気付いてるのか?) エスペリオンの話では素質の高い者は、契約前でも幻獣の気配を感じたりという事があるらしい。 「ふん・・・・、鏡佳、アルバイトじゃなかったのか?」 竜斗に興味をなくしたのか、鏡佳に向き直り当然の質問をする空弥。 「えっと、その・・・・」 「今日は休みなのか?」 鏡佳が答えあぐねいていると、空弥がさり気なく助け舟を出して話を進める。 申し訳なさそうに首肯する鏡佳を見て、空弥は小さく溜息を吐いた。 「用事があったならそう言えばいい、別に嘘を吐いてまですることではないだろう?」 「ごめんなさい。でもこれは私の我侭だから、兄さんに余計な心配は掛けたくなくて」 すっかり置いてけぼりな竜斗は、やや冷めてしまったコーヒーを啜りながら、どうしたものかと二人を眺めている。 「とにかく、特別怒るつもりは無い。だが次からはちゃんと、用事があるならそう言え」 「はい、ごめんなさい」 こういう時、鏡佳は空弥に頭が上がらないのだろう。しゅん・・・と縮こまって俯いている。 「とりあえず今日は寮に戻っていろ、折角だからゆっくり休むといい」 それだけ言い残すと、空弥は背を向け喫茶店を出る。 だがその直後、突然突風が吹き荒れ、ガラスが割れ看板が宙を舞い街が破壊されて行く。 「きゃっ?!」 「なんだっ?!」 鏡佳を護るようにガラスとの間に立ち塞がる竜斗と空弥だが、店の奥の方だったため然程の被害は無い。 しかしどうやって移動したのか、空弥は先程店を出たはずだ。 鏡佳の危険を察知し、傍に移動したのだろうか? 「ちっ、またあの化け物共かっ!」 言いながら鏡佳の手を取り、逃げる体勢を取る空弥。 「逃げるぞ鏡佳!」 「あ、兄さん?!」 言うが早いか、空弥は鏡佳を連れてその場から非難してゆく。 喫茶店を出ると、八雲学園の空には何やら鳥の様な人の様な妙な姿をした巨大な何かが旋回しているのが見えた。 (いつもと違う、今までの鬼≠ヘ空を飛んだりはしなかったのに) 鏡佳は逃げながら記憶を手繰り寄せ、たった今街を襲った怪物を分析する。 邪鬼の力の影響で街中が気絶していたため、人々はまだ鎧鬼≠フ存在は知らない。当然鏡佳もだ。 しかし今空中を旋回しているのは普通の邪鬼でも、炎狼鬼が全開の戦闘で見せた鎧鬼とも違っている。 (どうしよう、何とかしないと・・・・) 「兄さん、やっぱり私・・・・」 「必要ない、奴らの戦いは俺達には関係ないんだ」 鏡佳の言葉を遮り、空弥がぴしゃりと言い放つ。 「今は無事に避難する事を考えろ、他の事はそれからだ」 妙に苛立たしげな空弥は、それでも鏡佳を護りながら戦場から少しでも離れるように走った。 <NEXT> |